カ・トゥーパ
傀儡如来の宴


 ぢゃら…
 暗闇に閉じられたこの部屋で、鎖が悲痛な悲鳴をあげる。
 血と体液に汚れた四肢が暗闇の中央、つまりこの部屋の真ん中に黒い鎖で縫い止められていた。
 ここに拘束されてから幾日が経たのか、昼夜の感覚さえ狂ってしまう牢の中では見当をつけることさえままならない。ただ、何故あいつらがあの事を知っているのか、それだけが不思議だった。
 不意に足音が近づいて来るのが感じられた。あいつらだ。
 闇しかないこの空間は、その足音を実際以上に響き渡らせる。
「掠哉(リャクヤ)…」
 格子の外に灯りが燈され、世辞にしても好意的とは思えない男の声が発された。
「いつまでそう黙ってるつもりなんだ? こちらとしてもこれ以上黙りを続けるとなると、最後の手段を使わざるをえないんだがねぇ…」
 灯りで牢内の女の姿がはっきりと見てとれる。鎖で繋がれた四肢は皮膚が裂け、指先まで伝った赫い流れが石畳の地面に溜まりを作っていた。
 着物はすでに原形をとどめておらず、しかしそんな状態になってさえ掠哉と呼ばれた女は見る者を威圧する、気高いまでの美しさを保っていた。
「何なら…そう、確か十郎太とか言った…」
 男のその言葉に、掠哉は思わず頭を上げた。一瞬、きっと反応してしまったのはほんの一瞬だったに違いない。だがその刹那を男は見逃さなかった。
 下卑た笑みを浮かべ、言葉を続ける。
「そいつに聞いたって構わないんだぜ? ただその場合、そいつの命の保障は出来ないがな」
 張りつめた空気の中、問い詰める男と捕われた女の睨み合いは、弱味の無い男の勝利に終わった。
「…あれは、貴方達にとって何の価値もないものよ。例え手に入れた処で、扱えるはずが…」
 ふと掠哉は、何かに気を取られた様に言葉を止め、小さく発した叫び声と共に男の右方向を凝視する。
「なんだ? …がッ!」
 掠哉につられて振り向いた男は、逆の方向から現れた男に後頭部を強か蹴り込まれ、その男の存在を確認する間もなく意識を失った。
「十郎…太…?」
 そう呼ばれた男は、声の主を灯りの中に認めると素早く倒れた男の懐から鍵を抜き出し、錠を開ける。乾いた音が牢内に響きそして一瞬後、薄闇の中でもお互いの顔がはっきりと確認できる程の距離に男はいた。確かに十郎太だ。
 しかし十郎太は始終無言、無表情のまま一度も掠哉と眼を合わすことはなく、黙々とただ掠哉の手・足首にはめられた鎖を取り外していた。
「有り難う…」
 それ以上は言えなかった。明らかに十郎太は怒っている。言葉にしないだけ、その怒りが深いことが感じられた。
 ぢゃらん…ぢゃり…
 思い沈黙の中、鎖の触れあう音だけがこの薄暗い空間を支配していた。
 十郎太は、着物も肌も朱に染まった掠哉を構わず背負うと、気絶した男を牢に放り込み屋敷を出た。
 よほど十郎太の手口が上手かったのか、二人が屋敷を抜け出したことは誰にも知られず、追手もないままゆっくりと帰途につくことが出来た。
「十郎…」
 十郎太の背中からつぶやく、消えてしまいそうな程の掠哉の声は十郎太の言葉によって遮られていた。
「掠哉、今度のことちゃんと説明してもらうからな。掠哉のことも含めて」
 低いト−ンでつぶやく十郎太の横顔を、月光が浮き上がらせ、さらに冷たい印象を与える。長屋の引き戸を開け、帯状に差し込んだ月の光をくぐると土間の真ん中を鼠が横切っていくのが見えた。
 掠哉を板の間に座らせ、十郎太は桶に水を汲むとろうそくに火を灯す。
 ゆらゆらと揺れる炎が、掠哉と十郎太の影を揺らめかせて、掠哉の遠い記憶さえも呼び覚まそうとしていた。
「…そういえば、十郎太は何歳だった?」
 思い出したようにふと掠哉が問いかける。
 全てが眠りに落ちた後の静けさは、無性に何かに追い立てられるような気がして―――。このまま沈黙を保っていることには、とても耐えられる気がしなかった。
「十七…だよ」
「もうそんなに経つのね。あんなに小さかった貴方が、とうとう私の年齢をも追い越して…」
 肌にこびりついた血を手拭いで拭う掠哉の眼は今ではなく、赤ん坊だった頃の十郎太の姿を映していた。
「掠哉…どうして掠哉はこの十七年間、全く何も変わらないんだ? 俺だってもう子供じゃない、本当のことを聞く権利だって、理解する頭だってある」
 十郎太が怒っていたのは、掠哉が何も言わなかったからではなく、それほど自分が信用されていないのかという不安感からくるものだったのは間違いないようだ。
 十郎太が物心ついた頃から、掠哉は常に傍にいた。
 母として、姉として、十郎太の成長の陰には掠哉はなくてはならない存在だった。それは、十郎太が掠哉の年齢を越えてしまった今でも変わることはなく、時として掠哉は十郎太の妹でもあり、友人でもあり、恋人でもあった。
「そうね…そろそろ時期がきたのかもしれないわ。…でも、これだけは覚えていて、例えどんなことがあっても…」
 ろうそくの赤い光が掠哉の肌を照らして、紅潮したような錯覚を起こしていた。
「私は、貴方を愛しているわ」
 掠哉の両腕が、十郎太の首に回されその胸へと引き寄せる。
 掠哉よりも年上に見える十郎太だったが、その情景は幼子を抱く母親に他ならない。
「私は、気の遠くなるほどの過去に造られた〈贖物〉なのよ」
 その言葉には過去を振り返る懐かしさは微塵もなく、ただ生きることしか許されなかった女の思いが込められているようにも聞こえた。
「かつて、この御凪(ミナギ)の国が出来るもっと以前に〈日本〉という島国があったわ。東京を都とするその国は、今よりもずっと高度な文明を持ち…でも、それ故に存在してはならない物を創り出してしまった…」
 何時の時代でも発達し過ぎた文明は、否応なく運命の名のもとに滅ぼされてゆくのかもしれない。〈日本〉も例外ではなく、その最期は実際に国一つ沈めてしまう程の力を持った大地震によって成され、以後世界の歴史から姿を消した。
「私は、どんなことをしても死ぬ訳にはいかなかった…」
 眼を閉ざした掠哉の脳裏に、狂った荒波が人々の生命を蹂躙していく様子がまざまざと思い出される。歴史が神話へと変貌する程の時が過ぎても、死を間際にした人間の悲鳴や哀願の叫びは、今も掠哉の胸に焼印のように刻まれて消えはしなかった。
「私の役目は、過去の罪を償うこと…あの時の科学力では、存在してはならない『遺産』を処分することが出来なかった。だから私が造られたの、遠い…もっと科学の発達する未来まで待って、『遺産』を処分するために…十郎太?」
 掠哉の腕の中で、すでに十郎太は静かな寝息をたてていた。
 先程まで「全てを話せ!」と、憤っていた青年の姿はなく、その寝顔はろうそくの光の所為なのか、いつもより幼く見えた。
「話せって言ったのは貴方でしょう? 十郎太…」
 紡ぎ出す言葉とは裏腹に、掠哉は笑みさえ浮かべている。そう言えば昔からこうして抱いていれば、幾ら駄々をこねていてもすぐに眠ってしまったものだ。
 今となっては全てが愛おしく、懐かしい。
 開いた窓の隙間から覗く空には、いつの間にか雪が散らつき始め、明け残った星の光でそれが銀色に染まっていくのが見えた。神々しいまでの輝きは、目を離すことが出来ないほどの衝動を掻き立てると共に、言い知れない不安をも伴って掠哉の心中に影を落としていた。
 これからどうなるのか―――。
 何も、わからない。
 わかっているのはただ一つ、私は死ねない。成長することもできない。きっと十郎太が老いて逝ってしまった後も変わらず、ひたすら時の満ちるのを待つのだろう。
「……それでも、貴方を愛しているわ」
 生きることを強いられた掠哉は、運命の偶然で出会った十郎太に対して、抱いてやることしか出来ない自分を怨嵯の思いで見つめていた。



 首かみの紐に結びつけた銀の鈴が、艶やかに音をたてる。緋の袴に見を包んだ掠哉が、蝙蝠(かわほり)と言う名の扇を手に〈鈴舞〉と呼ばれる独特の舞を披露していた。
 しゃらん…しゃりり…
 しなやかに伸ばした腕が、ゆっくりと弧を描く。龍笛の音に合わせて動から静へ、、静から動へと自在に舞い移る掠哉は、この御凪で三本の指に数えられる白拍子でもあった。
 蝶を思わせる優雅さと、夜半の月の様な妖艶さを兼ねそなえた類稀なる美しさは、遙々遠方から一目見ようと訪れる者が後を絶たないほど、知られている。
 だが今回は何かが違っていた。貴族達の感嘆の眼の中に、一種異様な視線が発されているのを感じていた。憎悪でも嘲笑でもない感情を含んだ視線は、明らかに掠哉を挑発しながらも巧妙にその居場所を隠している。
 開いた扇が空を切るたび、鈴が鳴る。
 追い詰められるような視線を受け流そうとしているのか、激しく鈴が鳴り始める。
 しゃらしゃらしゃら…
 舞いは最高潮に達し、龍笛と鈴の音が混ざり合って彼女を包んでゆく。腰まで伸びた黒髪が紅潮した肌に映えて、柔らかな流れを作っていた。空を撫でる手が扇に添えられ、見事なまでに操りながら昇り詰めていく。
 銀の鈴は、すでに彼女の前に於いて美しさを奪われていた。

 しゃらん…
 扇を閉じ、舞いは終演を迎えた。
 静寂が渡る。
 掠哉はその場に座り込むと、扇で一線を劃し頭を深々と下げた。
「この度は遙々遠方からお出で頂き、真にありがたく感謝申し上げます…」
 弾けるように我に返った貴族達は、拍手することさえ忘れていた。男達は口々に彼女を誉め称える言葉を連ね、その美しさに女達は嫉妬するのも憚られる気がして口を閉ざすか、さもなければ美しさの秘密を聞き出そうとして饒舌になるかのどちらかだった。
「掠哉殿、これを…」
 酌をしてまわる掠哉の手を取り、幾らかの銭を握らせる男がいた。見ればかなりの金額であり、白拍子である掠哉が一年間働いても得られない額であることは間違いない。
 好色そうな男の瞳が掠哉の顔を覗き込み、その色を伺ってい太。掠哉は金を握らされた掌に眼を落としていたが、やがて顔を上げると男に向かって極上の笑みを作る。
 誰もが惑わされてしまいそうな艶やかな笑みに、すでに男は了解してくれたのだと思い込んでいた。心は早くも己と掠哉との情事を想像しているのか、だらしなく伸びた鼻の下がそれを物語っている。
 細くしなやかな指が男の腕に触れ、扇情的な微笑を浮かべたかと思うとしかしその唇から発された言葉は、男の期待を決定的に裏切るものでしかなかった。
「これの十倍の金額なら、考えないこともございませんが…」
 あくまで柔和な笑顔を保ちながら、到底無理な注文をつける。
 掠哉が男の目の前から立ち去った後、そこに残されたものは握り返された多数の金貨と、周りの男女達の冷たい嘲笑だけだった。
 すうっと立てられた扉が横に開き、白拍子とはまた異なった〈歌女〉と呼ばれる女達がこの部屋へと入ってくる。その中でも最も若い、十一、二歳程の少女が入り口で頭を垂れていた。
「お初に御目にかかります。氷魚と申す未熟者でございますが、どうか御見知りおき下さいませ」
 まだ幼い声の残る少女は氷魚と名乗り、おそらくこの座敷が初舞台なのだろう。それでもこの五、六人程の〈歌女〉の中で、飛び抜けて優れた異彩を放っていた。それは幼い少女でなければ出せない、薄氷のような透明過ぎる声の所為でもあった。
「…では、私はこれにて…」
 残りの白拍子や新しく現れた歌女達に後を任せると、掠哉は退出の礼を済ませ部屋から消えた。
 その後ろ姿を先程の視線が追っていたことなど、誰一人として気付くはずもなく、またそれは掠哉も同じだった。



 その晩は雨。
 霧の様な小雨が隙間なく振りしきる中、掠哉は家路を急いでいた。
 立て続けに仕事を五つも入れた所為ですっかり辺りは夜の闇に包まれ、雨除けに頭から被った布も湿って重さを増し、気休めにもならない。身体はすでに冷えきっていた。
「……?」
 ふと足を止め、遙か後方に視線を向ける。
 確かに、何かが在た。
 霧雨で鈍った感覚でもはっきりと感じ取れる、それほどの殺気。確かに何かが在たと思ったのに、そこには何もなかった。
「…気の所為、…?」
 微かな疑問を残しながら、再び歩を進める。
 雨音の中、か細くしか聞こえない自身の足音。それにもう一つの足音が重なってくる。やはり誰か在る。
 足音は紛れもなく掠哉の後を追っていた。ぴたっ、と掠哉はその場に立ち止まり、振り返らずにただ言葉を投げかける。
「…誰なの? 隠れてないで出て来なさいよ」
 一瞬の間を置いて、闇の奥から人の気配がする。ゆっくりと姿を現わしたその影は、思ってもみなかった人物だった。
 肩までに切り揃えられた黒髪。小さな身体に対して、はっきりとした大きな眼が印象的な少女。
「……氷魚さん?」
 そこに在たのは昼間初めて出会った時と何等変わりない、幼さを残したあどけない少女だった。
 見た目にまだ十一、二歳程度にしか見えない少女は、ずっと後をついてきたのか掠哉よりも酷くその身を雨に晒されていた。
「どうしてこんな所に?」
 疑問を感じながらもとりあえず、掠哉は自分よりも小さな身体に駆け寄り懐の手拭いで顔を拭いてやる。
「優しいんだね、掠哉。でも貴女にとって優しさは命取りにしかならないって、まだわからない?」
 無邪気な声が、一瞬掠哉の腕を凍らせる。
「貴女はもともと『遺産』を処分するのに、向いてないよ」
 自分の眼の前で何が起こっているのかまだ理解できない掠哉を見上げて、まるで氷魚は母親を困らせる子供のような笑みを浮かべていた。
「貴女は、…なんなの?」
 頬を叩き続ける雨の中、二人の女が対峙していた。
「貴女と同じ、『遺産』を葬るために造られた〈傀儡如来(カ・トゥ−パ)〉の一人…。と言っても私と貴女以外には、もう残ってないけど」
 一歩踏み出た氷魚に対して、一歩後退る掠哉は信じられないものを見たように頬を引きつらせている。
「……〈傀儡如来(カ・トゥ−パ)〉同士は監視役である私を除いて、お互いその存在を知らされていなかったから、驚くのも無理はないけど」
 まさか―――。
 自分と同じものが存在した、その事について驚かなかったと言えば嘘になる。しかしそれよりも突然理由も分からず幽閉され、この時代の者にとってはお伽話まがいの『遺産』について責め苦を受け続けた日々、それにこの子が関係しているのではないかと言う疑念のほうが大きかった。
 そうとしか考えられない。
 言葉を発することが出来ない彼女の表情を読み取ったのか、少女は掠哉の疑心を完全に見抜いていた。
「そう、あの人達に貴女のことを教えたのはあたし。『遺産』のことを教えたのも、あたし」
 十二歳程の少女には不釣り合いな大人びた表情に、頬を伝う雨水が重なって笑っているのに泣いているような印象を与え、いかにもそれは言葉では言い表すことの出来ない空恐ろしさを感じさせずにはいられなかった。
「…どうして? どうしてそんな事をする必要があるの? 私たちの目的は来たるべき未来を待つことでしょう。 なのに何故?」
「貴女は待てないじゃない!」
 堰を切ったように叫ぶ掠哉を前にして、氷魚はすでに呆れ果てていた。
 ―――待テナイ?
 ―――ドウシテ?
 もはや頭の中は疑問で埋め尽くされ、狂ったようにそれが廻り始めるのを掠哉はもう止められなかった。ますます激しくなる雨の中で何が正しくて、何が間違いなのか、誰かに救いを求めたいくらいに。
「十郎太…と言ったでしょう、あの少年」
 そう少女がつぶやく。溜め息を吐きながら、掠哉を見上げた視線はそのまま掠哉の心までも貫いていた。

   誰モ愛シテハ、イケナイヨ…
   独リデ生キルコトノ淋シサヲ知ッタ時、
   独リデハ生キラレナクナッテシマウカラ。

 記憶の底に刻みつけられていた言葉が、絶望的な響きを持って掠哉の脳裏を支配していた。
 何万年という、あまりに遠い昔に聞いた言葉だった。忘れていた訳ではない。赤子の頃の十郎太と、運命の偶然で出会ったあの日から無意識のうちに心の奥底へ封じ込めてしまっていた遠い記憶だった。
「十郎太は、私達とは違う。それは分かってる。いずれは老いて死に逝くあの子を見ながら、私には何もできないことだって…!」
 雨による寒さの為か、言いようのない現実を突きつけられた哀しみの所為か、震える唇からは嗚咽に掻き消されそうな叫びが漏れるだけだった。
「貴女はその十郎太の死に、耐えられるの?」
 どくん、と掠哉の心臓が大きく揺れた。
 考えたこともなかった、と言うより考えてはいけない事だったから。それを考えた時点で、今まで生きてきた自己の全てが否定されてしまう気がして。何よりこれからも生き続けなければならない自分が、立ち行かなくなりそうで。
 壊れてしまいそうな心と、果たさなければならない真実の前で、ただ掠哉は世界を包み込む銀色の閃光を虚ろに見つめていた。



 何かが変だ。家に戻った十郎太は冷たい床に寝転びながら、ある違和感に悩んでいた。
 あの日掠哉が監禁されていた屋敷に忍び込み、その目的を探っていた十郎太だったが、結局何の収穫もないまますでに辺りは夜の闇に閉ざされていた。
 ただ一つ分かったこと、それはあまりにも奇妙なことだった。
 屋敷に何らかの形で関係する全ての者が、あるいはその屋敷の主すら掠哉のことに関して何も知らなかったのである。いや、忘れている、と言ってもよかった。掠哉が拘束されていた数日間の記憶が、まるでそこだけ切り取られたように誰の頭にも残っていないのだ。
 ―――記憶が、消されている?
            それは、つまり―――…
 一つ、重苦しい鐘の音が響き渡る。亥の刻(九時頃)を告げる鐘だ。何気なく視線は戸口に向けられていた。
 固く閉められた戸には、何の変化も見られない。掠哉がこんな時間まで帰らないのは初めてだった。
 甲夜から乙夜へと移り変わろうとする闇の中、掠哉のいないこの空間は自分の知らないもののように感じられる。
 鐘の余韻がだんだんと消えていくに従って、先程の違和感が現実に形となって大きく膨れていくのが分かった。

 ―――ソレデモ、貴方ヲ愛シテイルワ…

 昨夜、ゆめうつつの中で聞いた掠哉の声。思い出すだけでも恥ずかしいほどに素直に眠ってしまったあの時、微かに届いたつぶやき。
 何故か哀しげに聞こえたそれは、今の十郎太にとって不安を大きくするだけのものでしかなかった。
 途端に十郎太はその場を立ち上がり、履くものも履かずに雨の降りしきる夜の闇へと飛び出していた。
 はっきりとした理由はなかった。強いて言えば直感、だろうか。このまま掠哉が帰ってこないのでは、という嫌な予感が胸に焼き付いて離れなかった。それは全てを叩き潰してしまいそうなほどに変貌した雨にも流されることはなく、ただ走り続ける十郎太を何かに急かしていた。
「…掠…哉?」
 探す手間もなく、掠哉はそこにいた。
 子供に飽きられた人形のように手足を投げ出し、濡れた黒髪の間からは固く閉じられた目蓋が微かに覗いている。
「貴方が、十郎太ね?」
 不意に幼い声が後方から聞こえた。振り向くと恐らく自分の身長の半分ほどしかない少女が、大きな眼で見上げている。
 ただの子供でないことは、その眼光からもその口調からも明らかだった。
「掠哉に何をした…」
「何もしてないわ、ただ眠ってもらっただけ」
 いかにも子供らしい笑みを浮かべ、一歩ずつ十郎太に向かって歩を進める。自分よりかなり小さいはずの少女が、一歩一歩近づくたびに一回りずつ大きくなっていくような威圧感さえ覚えて、両足がその場に凍りついたまま微かに動くことも出来なかった。
「掠哉よりも、用があるのは貴方の方よ」
 氷魚は右手を身体の前に突き出し、左手でその手首を掴む。まるで弓の照準を合わせるようにして、視線上に自らの右手と十郎太の姿を重ね併せていた。
 ふっ、と氷魚の顔から笑みが消える。
 次の瞬間、十郎太の身体は氷魚の掌から発された何かによって、大きく後ろへ弾き飛ばされていた。
「―――――――ッ!」
 激しく板壁に叩き付けられ、混沌とする意識に自我すら奪われそうになりながらも、追い討ちをかけるように降り続く雨が僅かな繋がりで十郎太をこの世界へ引き止めている。
 一体何が起こったのか理解できなかった。
 反射的に顔を上げると、眼の前の氷魚の大きな瞳が自分を覗き込んでいるのが見えた。と、同時に右腕に取り付けられた金属が視界の端に認められる。
「電磁増幅機(マグ・ナライズ)よ。相手の人体に含まれる微量の電・磁力を増幅し、これ自体の磁力と反応させることによって目標を操ることが出来る…」
 叩き付けられたショックで咳き込む十郎太を見据えながら、わざとらしく説明してみせる。
「どう…して、こんな事…を?」
 掠哉に対する仕打ち、自分への徹底した攻撃、十郎太にとってはその全ての理由が分からなかった。
「私は、貴方が生まれるずっと前からここにいたわ、そうして掠哉が生きていくのを監視して、最終的には『遺産』を処分するところまでを見届けるのが私の存在理由なのよ」
 瞬間浮かんだ表情に、何故か掠哉の面影を見付けていた。
「でもそこに貴方が現われたの」
 口調が変わり、十郎太を責めるような眼差しに掠哉の面影は掻き消される。
「今はまだ良いわ。貴方が生きてるから。だけど貴方という存在を知ってしまった現在の掠哉が、貴方が死んだ後も今までと同じように生きていけると思う?」
 確かに、齡を取らない掠哉は十郎太と同じ時を生きることが出来ない。必ず別れなければならない時が来る。
 十郎太という人間の死を以て。
「掠哉は死ぬ訳にはいかないのよ。『遺産』を処分するまでは。それを拒否するということは、今生きている人間を全て殺し、そしてこれから生まれてくる生命をも滅ぼしかねない事態に…」
「『遺産』とは、何なんだ…? それをどうしても掠哉がしなけりゃならない理由でもあるのか!」
 聞いていて余りの理不尽さに、怒りすら込み上げてくる。
 その『遺産』とやらの為に、何故掠哉の命までもを他人に握られなければならないのか。それが許せなかった。
「…貴方は『遺産』が何であるか知らないから、そんなことが言えるのよ。いいわ、教えてあげる」
 氷魚の頬に、自嘲とも苦笑ともとれる微笑が結ばれる。
「…『爆弾』よ。この世界を百回滅ぼしてもまだ余るくらいの。その大量の 『爆弾』が、掠哉の〈胎内〉に安置されているの」
 一瞬、言葉を失っていた。
「どう…して」
 それ以上、言うべき言葉が見つからないまま立ち尽くすしかなく、しかし氷魚の語ること全てが真実だと認めないわけにはいかなかった。何よりも、掠哉の存在そのものが証拠だったから。
「分かるでしょ? 貴方がいるお陰で、生まれてこれない生命がある…貴方は掠哉の前に存在してはならなかったのよ」
『存在してはならなかった』…つまり、掠哉と過ごしてきたこの十七年間は間違いだったと。
 ―――間違イ?
「十七年…思い出作りには充分な時間をあげたつもりよ。二十歳くらいまでは待ってあげようかとも思ったけど、…もう限界ね」
 くす…、と十郎太に向けた眼差しに哀れみに似たものが混じる。
「……貴方、掠哉のことを『母』とも『姉』とも見れなくなってきてるでしょう。所詮、脳内麻薬が分泌されるだけの錯覚状態とは言っても…危険なの」
 この意味わかる?、と付け加えて。
「もういい? じゃあ、そろそろ死んでくれるかな」
 十郎太の胸に押し当てた右手が、微かな光を放つ、今までとは比べものにならない程の衝撃が、十郎太の身体を突き抜けていく。
 心臓が融かされるような苦痛にも、しかし叫び声は出なかった。
「…強すぎる磁力は、人体に有害だってこと知ってる?」
 ―――間違イ、ナノカ?
 喉の奥でつかえた叫びは、湧き起こる衝動によって膨らんでゆく。
「ま、知る訳ないか」
 ―――間違イダトスルナラ…
 見開かれた十郎太の眼が氷魚の眼を見返し、同時に残され  それは、まさに断末魔、だった。
「俺は…っ、正しくなんかなくて、いい…!」
 血を吐くような叫びは雨音に掻き消され、氷魚の無表情な言葉が後を潰していく。
「正しくても、正しくなくても…私はそれに従うしかないのよ」
 その言葉を聞いた者も、一瞬頬を流れた雨水を見た者も、誰一人として居はしなかったが。
 雨の降り続く中、ただ一人立ち尽くす氷魚は親に捨てられた幼子のようだった。人を愛することも、人に愛されることも出来ないほどに幼い子供は、掠哉と同じ感情を覚えてはならなかった。
 きっ、と振り返り掠哉を見詰めるその眼差しには、何処か羨望の想いが込められているようにも見えた。
「私も、貴女みたいだったら良かったのに…」
 誰かに語りかけるような口調は、雨に溶かされ誰の耳にも届かなかった。
 ざり…
 土に塗れた掠哉の指先が、地面の泥を握りしめ細く震える。
「……殺…した、の?」
 深い場所に押し込められていた意識が、瞬間届いた叫びによって覚醒しそしてそれが何であったのかを今、確信した。
「だったら、どうするの?」
 絶望的な、響き。
 最早、自己の奥底から込み上げる衝動を止めることは出来なかった。そして掠哉の微かに開いた唇から発された言葉は、呪いの科白でもなく、哀しみの嗚咽でもなく、その身を狂気に委ねた女の嘲笑、だった。乾ききった喉から音にならない笑い声が漏れる。それを、狂った女が冷静に見詰める。
 今となっては、本当に哀しいのかすら分からない。
 否、それはもう『哀しみ』ではないのかもしれない。
「…っ、はは…は、――ッ!」
 髪を振り乱し、何かに取り付かれたように肩を震わせる掠哉。
 そして、それを見詰める氷魚。
 決して繋がれることのない二つの眼差しは、遠い過去に契約された柵と枷によって、翻弄されるそれぞれの想いの果てを求めているようにも見えた。
「また、始めからやり直しね。大丈夫、苦しくないように『十郎太』に関する記憶は全て消してあげるから…」
 小さな手を掠哉の額にあてる。ひんやりとした感触は、白衣の男に連れられたった一度だけ遠くから眺めた、あの日の母親の姿を思い出させていた。
「……お母さん…」
 額にあてた掌から、無数の光が溢れ出す。次から次へと膨らみ輝きを増す光の粒子に比例して、氷魚の瞳からは思慕の結晶がとめどもなく溢れていた。  記憶を吸収しそれを輝きとして己に取り込む光自身は、そんな氷魚を知ってか知らずか、ただ夜の闇へと昇っていくだけだった。
 空は乾き、やんだ雨の代わりに昇ってゆく光だけが、暗黒の世界を満点の星空に変貌させていた。



 ―――…ヤ、…リャクヤ…、リャクヤ……
 ゆらゆらと流されていく意識だけがそこに在った。
 何時からここにいたのか、ここが何処なのかも知らない。心地良く包んでくれる温かい光と、女の名を呼ぶ誰かのつぶやきが今の全てだった。
『リャクヤ…?』
 先程から絶えなく聞こえるあの声が、誰に向けられているのかなどもう分からない。しかしその声が自分にとって、何処か懐かしく思えるのは何故だろう。
『…分からない…』
 幾ら記憶の糸を手繰り寄せようとしても、手繰るべき糸がここには無かった。
……リャクヤ…
 次第に声は遠くなっていく。
 あと少しすれば完全に消えて無くなるだろう声は、それでも優しい響きを持って漂う意識に安らかなものを与えていた。
 ―――リャクヤ…、リャクヤ…
      ドンナ姿ニナロウト、
      ドンナ所ニ在ヨウト、
      必ズ、見ツケ出シテ、
      今度ハ君ノ為ダケニ……生キヨウ―――
  


 みぁ…みゃあ……
 ひょこひょこと、生まれてまだ間もない仔猫が着物の裾へ必死に擦り寄っている。少し白みがかった赤虎の仔猫は白銀の髭を震わせ、女の両手に抱き上げられるままに委せていた。
「可愛いのね…。お前、行く宛が無いのなら一緒に来る?」
 喉を撫でながら微かな笑みを浮かべる女は、心地良さそうに眼を細める仔猫を愛おしげに見詰めている。
「…じゃあ、お前の名前決めないとね」
 仔猫を抱いたまま歩き続ける女は、少しの間黙り込み考えを廻らせると、やがてこれ以上ないほどの笑みと共にこう言った。
「そうね、お前は今から『十郎』よ」
 掠哉はそれだけを言い、十郎と名付けられた仔猫を連れて、まだ人の多い夕暮れの通りへと消えて行った。


<To first place>


 


BACK